わたしがそこにいないとき

映像6min 2015.11

私たちは何百年と生きることも、同時 に多くの場所にいることも出来ない。

 世の中には私たちが関与し得ない場 所や時間が溢れている。 フランスの哲学者デカルトが「我思う、 ゆえに我あり」と提唱した事からも、 あらゆる事物の存在の不確定さが窺 える。

私が目を閉じたら音以外の全 ては消えているかもしれないし、私が いない昼の自室は遊園地になってい るかもしれない。不確実なものから 生まれる想像の世界と現実を行き来 するイメージがある。


わたしは今日、一歩も家を出なかった。いつもと違う平日だ。

頑張れば行けただろうけれど今日はこの少しの頭痛に甘んじたかった。

 生温い布団の中で、わたしがいない空間と時間に想いを巡らす。 


学校、バイト先、電車。わたしがいない場所はいつもと変わらないのだろうか。 

人間が眠りについた頃おもちゃ達は集まり動きだす、そんな童話を読んだ事がある。 

そんなもの子供騙しだと思っていたけれど、わたしは踊る人形どころか、わたしがいない 部屋すら見た事が無い。


わたしが学校を休んだとき 本当はみんな休んでいたかもしれない

わたしが乗らなかった電車は 何時間も止まっていたかもしれない

だから今日は行かなくても良かった。


わたしがテレビを見ていた時 コップの中の牛乳はぬるくなっていたかもしれない

わたしがカーテンを閉めた時 病葉が全て散ったかもしれない

わたしがうたた寝をしたとき ポストに不在票が入れられたかもしれない

 わたしはそれに気付かない。


わたしが目を閉じているとき 周りに色がなくなるかもしれないし

わたしが耳を塞ぐとき 周りは余計に騒がしくなるかもしれない

わたしが見ていないとき 彼は泣い涙ていたかもしれない

わたしがいないとき わたしがそこにいないとき そこにはなにもない

わたしは知っている わたしは知らない

〈作中テキスト〉

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